投稿者: cypher

  • 1980年5月24日

    1980年5月24日

    1980年(昭和55年)5月24日、JOC(日本オリンピック委員会)は臨時総会を開き、モスクワオリンピックへの不参加を決議した。

    1980年モスクワオリンピックは、1980年7月19日から8月3日までの16日間、ソビエト連邦の首都モスクワで開催されたオリンピック競技大会。共産圏、社会主義国では初の開催となった。

    当時の冷戦下において、前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、対立するアメリカ合衆国のカーター大統領は、1980年1月にボイコットを主唱した。日本をはじめ西側諸国約50カ国が不参加を決めた。

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  • 1980年5月23日

    1980年5月23日

    1980年(昭和55年)5月23日(現地時間)、黒澤明監督の『影武者』がカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(グランプリ)を獲得(日本時間では5月24日)。第33回カンヌ国際映画祭は1980年(昭和55年)5月9日から22日にかけて、フランスのカンヌで開催された。カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭は、世界三大映画祭と称される。

    『影武者』は、1980年(昭和55年)4月26日に公開された日本の歴史映画である。監督は黒澤明、主演は仲代達矢。ハリウッドの大手スタジオから世界配給された最初の日本映画で、黒澤を敬愛するフランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカスが外国版プロデューサーとして参加した。

    主役の勝新太郎の降板騒動など公開前から話題を呼び、当時の日本映画の歴代映画興行成績(配給収入)1位を記録、1983年に蔵原惟繕監督の『南極物語』で抜かれるまで破られなかった。

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  • 1980年5月22日

    1980年5月22日

    1980年(昭和55年)5月22日、ナムコがアーケードゲーム『パックマン』を発表、東京・渋谷のゲームセンターでロケーションテストを開始した。

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  • 1990年5月21日

    1990年5月21日

    1990年(平成2年)5月21日、すかんち、「恋のTKO」でメジャーデビュー。

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  • 1984年5月20日

    1984年5月20日

    1984年(昭和59年)5月20日、外国人初の関取・高見山が引退。

    ハワイ・マウイ島出身の高見山は、高砂部屋にスカウトされ、1964年(昭和39年)2月22日に来日した。同年同年3月場所にて初土俵を踏んだ。

    「外国人」として注目を浴びていた高見山は、初土俵から3年後の1967年(昭和42年)3月場所で新十両に昇進し、初の外国出身外国籍の関取となった。その力量も期待されるようになり、翌1968年(昭和43年)の1月場所で新入幕を果たし、史上初の外国出身外国籍の幕内力士となった。1969年(昭和44年)11月場所で小結に昇進。1972年(昭和47年)7月場所では13勝2敗の好成績で史上初の外国出身力士による幕内最高優勝を遂げた。翌場所には外国出身で初の関脇に昇進し、大関候補の一人と目されるようになったが、大関昇進は果たせなかった。

    「40歳まで相撲をとりたい」、「(当時建造中だった)両国国技館で相撲をとりたい」と語っていた高見山だったが、1984年(昭和59年)5月場所、40歳まであと1ヶ月のところで力尽きて引退を表明、両国国技館で相撲をとる夢も果たせなかった。引退宣言は場所中に唐突に行われたため、相撲ファン以外も驚かせマスコミで大きく取り上げられた。同場所千秋楽の最後の一番(玉龍戦)は黒星だったが、満員の観衆から大声援を受け、花道を引き揚げる際には花束も贈呈された。引退に際して「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と力強く語った。

    高見山は、「ジェシー」の愛称でも親しまれ、その人柄・キャラクターからCMやテレビ番組にも多数出演していた。なかでも、松下電器産業 携帯型テレビ「トランザム」のCMで披露したタップダンスや、丸八真綿 「マルハッチ!」「二倍二倍、二枚二枚」のキャッチフレーズは大きな話題となった。

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  • 1980年5月19日

    1980年5月19日

    1980年(昭和55年)5月19日の衆議院解散は「ハプニング解散」と呼ばれている。与党野党ともに予測できない解散だった。

    1980年5月16日、内閣不信任案が提出された。与党である自民党は「党内一致で不信任案を否決」、マスコミ各社は「内閣不信任案否決へ」などと報じた。だが、当日の午後6時50分、内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決されることとなった。自民党反主流派などが本会議を欠席したことが票に影響した。この時点で、政府は解散か総辞職かの道を選ぶことになるが、当日に動きはなかった。内閣不信任決議可決当日に衆議院を解散しなかったのはこの時だけである。

    1980年5月19日、灘尾議長が本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、解散詔書を朗読し、前回の選挙(*)からわずか7ヶ月余で衆議院は解散となった。

    (*)全開の選挙は、1979年10月7日の第35回衆議院議員総選挙。この選挙で自由民主党は、選挙前より獲得議席が下回った。1979年11月6日に行われた首相指名選挙では自民党の投票先がほぼ二分されるという日本国憲法施行以来前代未聞の事態が起こり、1979年11月20日の第2次大平内閣の本格的発足まで自民党は党内で激しい争いがあった(四十日抗争)。

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  • 1988年5月18日

    1988年5月18日

    1988年(昭和63年)5月18日の未明1時20分頃、大阪港に寄港中のソビエト連邦の旅客船「プリアムーリエ号」から出火し、11人が死亡、35人が負傷した。

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  • 1985年5月17日

    1985年5月17日

    1985年5月17日、1985年(昭和60年)5月17日、三菱南大夕張炭鉱にて、ガス爆発事故が発生した。死者62人、重軽傷者24人の大惨事となった。

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  • 1981年5月16日

    1981年5月16日

    1981年(昭和56年)5月16日、フジテレビ系列で伝説のバラエティ番組『オレたちひょうきん族』の放映が開始。第1回目は、『決定!土曜特集・オレたちひょうきん族』のタイトルで、ナイター中継中止時の雨傘番組として放送された。視聴率は9.5%だった。

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  • 1990年5月15日

    1990年5月15日

    1990年(平成2年)5月15日、イギリスのオークションハウス・クリスティーズでの競売にて、大昭和製紙名誉会長の齊藤了英がゴッホの「医師ガシェの肖像」を競り落とした。落札価格は当時史上最高落札額の8250万ドル(当時のレートで約124億5000万円)だった。

    齊藤は数日後にルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」も7810万ドルで落札し、「自分が死んだら棺桶にいれて焼いてくれ」と発言したという。この発言が報道されると世界中から批判が殺到し、齊藤了英は「この絵に対する情熱を表現した言葉のあや」と釈明、「死後は日本政府か美術館に寄贈する」と説明した。しかし購入後は一般公開されず、彼が1996年に死去した後も寄贈されることはなかった。

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  • 1983年5月14日

    1983年5月14日

    1983年(昭和58年)5月14日、アメリカのカール・ルイスが陸上100m走で9秒97を記録。平地での電動計時では史上初めて10秒の壁を破った。

    人類が初めて9秒台を達成したのは1968年のこと。メキシコ五輪において米国のジム・ハインズが9秒95を記録、これは高地記録(標高1,000m以上)での認定だった。

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